思想・信念の最近のブログ記事

2009年8月 1日

1or0, DorA?

ンピュータや携帯電話といった、デジタルコミュニケーションツールに囲まれた世代に生まれ、それを使うことを余儀なくされている...と悲観的に感じている人はどれだけの少数派だろうか。特に我々若者の世代で。

私はパソコンを13年間・携帯を8年間使い続けてきた。きっと、普通の人が使うよりパソコン・携帯を酷使してきたし、「それがなければやっていけない」と好意的に思っていた。だが、人間ある程度行き着くところまでいくと、その反対を欲するようで、デジタル機器に囲まれない生活をしてみたい、という贅沢を考えてしまう私に気づくのである。最近では「それがなければやっていけない」と"悲観的に"思うようになった。

ならば実行してみればいいじゃないか、と考えてみた。パソコンを開いてWeb閲覧をやめることはできるかもしれない、携帯を持ち歩かないで音信不通になれるかもしれない。だけれども、私が抱える一番の問題は、私の音楽が「コンピュータ音楽」であるということである。使いたくないコンピュータを使わなければ自分の音楽ができない、ということがひねくれた問題であり、皮肉である。

ギタリストであるジミ・ヘンドリックスがギターに火を着けた気持ちが、今分かるような気がする。デジタル機器との関わりを絶つことの出来ない私は、自身への戒めとして、ノートパソコンを物理的に"つるし上げ"、"揺さぶる"オブジェを制作した。→学生時代のブログ記事

なからず数年後には、大半の人が「悲観的な」デジタル機器への関わりを感じはじめることだろう。私のように「コンピュータ音楽」について悩む人はいないだろうから、その多くは、デジタルコミュニケーションの飽和によるものだと思う。

mixiをはじめとしたSNS、Web2.0の立役者であるブログ、最近流行のTwitter、メールによるコミュニケーション、モバイル端末の普及と技術発展によるネットアクセスの簡便・高速化。文字ベースのコミュニケーションから、画像・動画などのよりリアル(に感じられるよう)なコミュニケーションへ、進展はしているが...

どんなにデジタルはいくら技術が進歩し続けても、デジタルの域は超えられない。やはり、リアルではない。それはもうみんな薄々気づいているのだ。ただ、気づかないふりをして、行き着くところまで行かないと、歴史は動かない。

歴史の流れは右に行ったり左に行ったり、
  真ん中で止まることは決してない、
    振り子のようだ。


歴史が動いてデジタルの次にやってくるものはいったい何だろう。
私が考えるに、それはデジタルを超えるデジタルであり、それは「アナログ」である。

ここで言う「アナログ」とは「超デジタル」である。現在、デジタルと対になって、かつ見下されて考えられている「反デジタル」のアナログとは違う。未だ、IT革命の余波に浸っていたり、デジタル神話を信じてやまない人は到底これを実感として感じられないだろが、数年後の飽和状態になった後に認知される「アナログ」は、アナログとデジタルの立場が逆転した後のものである。そうか、そうなると「デジタルとは、アナログを表現するツール」と胸をはって言えることになるのだ。

れをふまえて、私はこのオブジェをつくって気づいたことが2点ある。

まず、なぜ私がパソコンをつるし上げようと思ったのか、である。これは、アナログを軽んじていた私への戒めであり、デジタルを皮肉に扱うことでのアナログ優位性を示すためにつくりあげたオブジェなのだろう。

また、自分で言うのも何だけれど、同じ学年の中で一番コンピュータを扱うことが出来た私が、どうして工学部などのコンピュータを専門に取り扱う分野に進まず、音楽に方向を向けたのか、が分かった。この選択をしたのは高校2年生の時だ。工学部に進もうと漠然と思っていたのだが、それがどうしても嫌になったのだ。そのときなぜそう思ったのか自分でも分からなかった理由は、今この考えにあると思う。

コンピュータを専門にしてしまえば、デジタル神話へ荷担してしまうことになる、それが嫌になると薄々気づいていたのだと思う。でも、そのときはデジタル機器大好きだったから、それに気づきたくない、という気持ちの狭間で訳分からなくなっていたのだと思う。このしこりがとれるまでに5年かかった訳だ。コンピュータ音楽であれば、アナログの音楽を生み出すための「ツール」ですむ。

術は取り入れなければいけないが、それに完全に蝕まれてはいけない。
よりリアルな意思疎通、リアルな音楽を求めて、私は生きていきたいと思う。

河合達人(kawai tatsto)
(2008年7月記す、2009年8月加筆修正。)